呂不韋|春秋戦国時代の秦の商人の人生

中国、日本、西洋を比較した年表。

目次

呂不韋とは

■商人から政治家へ

呂不韋は、一介の商人でしかなかった。その時、まったく有力ではなかった秦の公子を支援し秦王に押し上げました。 自身はその功績によって秦国の最高位相国にまで上り詰めました。権勢は秦国では並ものはいないほどであった。

■呂氏春秋

また3000人を超える食客を持っているとされ、彼らによって共同編纂された『呂氏春秋』は有名である。

呂不韋の歩み

西暦 年齢 出来事
紀元前292年 0歳 誕生。
この年かどうか諸説あり
紀元前279年 13歳 商人として活動。
若年期は商人として活動。商才に長けており次第に富を築く
紀元前267年 25歳 各国を行商
政治的な人脈を広げていく
紀元前250年 42歳 子楚(後の荘襄王)を支援。
彼を王位につけるために支援し自身は秦の大事となり政治家として地位を固めた。
紀元前249年 43歳 秦の政治の頂点に(宰相)。
子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は秦の宰相となり、実質的な政権のトップに立ちました。この時期に多くの政治改革を行い、秦の強大化に貢献しました。
紀元前247年 45歳 荘襄王が亡くなる。
嬴政(後の始皇帝)が即位しました。その後、嬴政の若年の間呂不韋が実質的な政治の指導者であり続けました。
紀元前240年 52歳 影響力の減少。
嬴政が成長し、次第に自らの統治を行うようになると、呂不韋の影響力は徐々に減少していきまし。
紀元前237年 55歳 政界から引退。
呂不韋は陰謀の疑いをかけられ、政界から引退を余儀なくされました。
紀元前235年 57歳 死去。
呂不韋は自害しました。これにより、その波乱に満ちた生涯は幕を閉じました。

中国の春秋戦国時代の地図。秦、楚、韓、魏、斉、趙、燕の7国を地図で示している.

「これ奇貨なり。居くべし」荘襄王への投資

■荘襄王との出会い

呂不韋りょふいは、趙で人質として暮らしていた秦の公子である荘襄王そうじょうおう を見つけた。その生活は、趙と秦の関係が悪くなったこともあり不遇だった。日々を過ごすのも窮屈するほどであった。

■秦が趙への進行

両国の関係が悪くなったのは秦が人質である荘襄王を考えず2回も趙を攻めたためである。
紀元前258年(昭襄王49年)
紀元前257年(昭襄王50年)
それは、秦の公子のなかで優先度が低いためであった。

■これ奇貨なり

生活にも困っている荘襄王そうじょうおうを見て呂不韋りょふいは「これ奇貨なり。居くべし」(これは、思いがけない品だ。仕入れておくべきだ) と言ったといわれている。これは、荘襄王そうじょうおうを秦王にし巨大な権力を得ようと考えたからである。そして多額の投資を行った。

擁立 荘襄王を秦王に

■荘襄王を支援

荘襄王そうじょうおうを秦王にするために、支援をおこなった。 まず荘襄王そうじょうおうに支援を行い趙の社交界で名を広めさせた。 自身は、秦に行き太子の安国君あんこくくん(孝文王)の寵姫である華陽かよう夫人へ荘襄王そうじょうおうを宣伝した。

■太子の養子に

さらに、華陽かよう夫人の姉へ財産の一部を贈り彼女を動かし、荘襄王そうじょうおう華陽かよう夫人の養子にし安国君あんこくくんの後継者 とするように説いた。華陽かよう夫人は安国君あんこくくんの寵愛があったが子が生まれなかった。このままだと 自身の地位にが危うくなるためこの話に乗った。そして安国君あんこくくんもこの話を承諾した。 その後に荘襄王そうじょうおうが秦の王にになり、呂不韋りょふいは強大な権力を得た。

■趙姫を妻に

また、荘襄王そうじょうおうは酒の席で 趙姫ちょうきを気に入り呂不韋りょふい趙姫ちょうきを妻にしたいと相談した。 趙姫は、もともと呂不韋りょふいの妾であった。呂不韋りょふいは不満であった。 しかし、荘襄王そうじょうおうに多額の援助をすでにしていたため断ることはせず仲を取り持った。 そして、趙姫と荘襄王そうじょうおうの間に生まれてた子は後の始皇帝である政である。

秦の相国 並ぶことのない権勢

■秦の最高職相国へ

一時、秦で彼に並ぶものがいないほど権力を握た。 荘襄王そうじょうおうが秦の王に即位し呂不韋りょふいは、法廷の最高職の相国(首相に似ている)についた。 しかし、荘襄王そうじょうおうが即位後すぐに没してしまった。 そして太子の政( 始皇帝しこうてい)が王となった。 荘襄王そうじょうおうが没しても仲父(父に次ぐ尊称)という称号を与えられ 権勢は衰えることはなかった。

■呂氏春秋の編成

この時各国の名士(魏:信陵君、楚:春申君、趙:平原君、斉:孟嘗君)が客を集めて競い合っていた。 呂不韋も士を集めた。その数は3000人にも達したといわれる。呂氏はその食客たちに共同編纂させて「呂氏春秋」 を作った。

■合従軍を撃退

また、5国合従軍が秦に攻め入った際、秦軍は函谷関で撃退した。 この時全軍の総指揮を執ったと考えられる。

最後

■趙姫への未練

荘襄王そうじょうおうの死後、呂不韋は太后(趙姫ちょうき)と関係を持ってしまっていた。 これはとても危険なことなことであった。太后からの誘いがあり、呂不韋りょふいとしても、未練があり関係を戻したのである。

■嫪毐を紹介

しかし、政が成長するにつれ関係を続けるは危険であると考えなおした。 そこで嫪毐ろうあいという男を太后に紹介し、自身の代わりとして男性が入れない後宮へ宦官に偽装して送り込んだ。

■嫪毐の反乱

太后は嫪毐と関係を持ち2人の間で息子を生んでしまった。 しかし、それはすぐに発覚してしまった。 そのままだと刑が与えられる嫪毐ろうあいは政に対し謀反を起こし、窮地を乗り切ろうとする。 だが、嫪毐ろうあいの反乱はすぐに鎮圧され、嫪毐ろうあいは車裂きの刑で誅殺された。

■呂不韋の失脚

また、嫪毐ろうあいの2人の息子も処刑され、太后は幽閉された。 この一件は呂不韋りょふいへも波及した。 処刑されるところだったが、今までの功績を重んじ、相国の罷免と蟄居ちっきょ(自宅や一定の場所に閉じこめて謹慎させる)に減刑された。

■呂不韋死亡

しかし、呂不韋りょふい蟄居ちっきょ後であっても客との交流を止めず、諸国での名声も高かった。そのため、政は呂不韋りょふいが客や諸国と謀って反乱を起こすのではないかと危惧した。 そして、呂不韋りょふいは蜀地域への流刑を追加されたことで、自らの末路に絶望し、自殺した。

『呂氏春秋』

■商人から政治家へ

呂不韋りょふいには多くの食客がおり、彼らに共同編纂させた書物である。 秦の始皇8年(紀元前239年)に完成した。 儒家、道家、法家、兵家、農家など諸氏百科の説が含まれており当時の説を集めた百科全書のようなものである。 現在も研究のための貴重な史料である。

■一字千金

呂不韋りょふいは『呂氏春秋』 を市の真ん中に置いて「一字でも減らすか増やすかできるものには千金を与える。」と触れ回った。 これが、一字の値が千金にもあたるほど立派な文章であるという意味の四字熟語の一字千金の由来といわれている。