呂不韋は、一介の商人でしかなかった。その時、まったく有力ではなかった秦の公子を支援し秦王に押し上げました。 自身はその功績によって秦国の最高位相国にまで上り詰めました。権勢は秦国では並ものはいないほどであった。
また3000人を超える食客を持っているとされ、彼らによって共同編纂された『呂氏春秋』は有名である。
西暦 | 年齢 | 出来事 |
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紀元前292年 | 0歳 |
誕生。 この年かどうか諸説あり |
紀元前279年 | 13歳 |
商人として活動。 若年期は商人として活動。商才に長けており次第に富を築く |
紀元前267年 | 25歳 |
各国を行商 政治的な人脈を広げていく |
紀元前250年 | 42歳 | 子楚(後の荘襄王)を支援。 彼を王位につけるために支援し自身は秦の大事となり政治家として地位を固めた。 |
紀元前249年 | 43歳 |
秦の政治の頂点に(宰相)。 子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は秦の宰相となり、実質的な政権のトップに立ちました。この時期に多くの政治改革を行い、秦の強大化に貢献しました。 |
紀元前247年 | 45歳 |
荘襄王が亡くなる。 嬴政(後の始皇帝)が即位しました。その後、嬴政の若年の間呂不韋が実質的な政治の指導者であり続けました。 |
紀元前240年 | 52歳 |
影響力の減少。 嬴政が成長し、次第に自らの統治を行うようになると、呂不韋の影響力は徐々に減少していきまし。 |
紀元前237年 | 55歳 |
政界から引退。 呂不韋は陰謀の疑いをかけられ、政界から引退を余儀なくされました。 |
紀元前235年 | 57歳 |
死去。 呂不韋は自害しました。これにより、その波乱に満ちた生涯は幕を閉じました。 |
呂不韋は、趙で人質として暮らしていた秦の公子である荘襄王 を見つけた。その生活は、趙と秦の関係が悪くなったこともあり不遇だった。日々を過ごすのも窮屈するほどであった。
両国の関係が悪くなったのは秦が人質である荘襄王を考えず2回も趙を攻めたためである。
紀元前258年(昭襄王49年)
紀元前257年(昭襄王50年)
それは、秦の公子のなかで優先度が低いためであった。
生活にも困っている荘襄王を見て呂不韋は「これ奇貨なり。居くべし」(これは、思いがけない品だ。仕入れておくべきだ) と言ったといわれている。これは、荘襄王を秦王にし巨大な権力を得ようと考えたからである。そして多額の投資を行った。
荘襄王を秦王にするために、支援をおこなった。 まず荘襄王に支援を行い趙の社交界で名を広めさせた。 自身は、秦に行き太子の安国君(孝文王)の寵姫である華陽夫人へ荘襄王を宣伝した。
さらに、華陽夫人の姉へ財産の一部を贈り彼女を動かし、荘襄王を華陽夫人の養子にし安国君の後継者 とするように説いた。華陽夫人は安国君の寵愛があったが子が生まれなかった。このままだと 自身の地位にが危うくなるためこの話に乗った。そして安国君もこの話を承諾した。 その後に荘襄王が秦の王にになり、呂不韋は強大な権力を得た。
また、荘襄王は酒の席で 趙姫を気に入り呂不韋に趙姫を妻にしたいと相談した。 趙姫は、もともと呂不韋の妾であった。呂不韋は不満であった。 しかし、荘襄王に多額の援助をすでにしていたため断ることはせず仲を取り持った。 そして、趙姫と荘襄王の間に生まれてた子は後の始皇帝である政である。
一時、秦で彼に並ぶものがいないほど権力を握た。 荘襄王が秦の王に即位し呂不韋は、法廷の最高職の相国(首相に似ている)についた。 しかし、荘襄王が即位後すぐに没してしまった。 そして太子の政( 始皇帝)が王となった。 荘襄王が没しても仲父(父に次ぐ尊称)という称号を与えられ 権勢は衰えることはなかった。
この時各国の名士(魏:信陵君、楚:春申君、趙:平原君、斉:孟嘗君)が客を集めて競い合っていた。 呂不韋も士を集めた。その数は3000人にも達したといわれる。呂氏はその食客たちに共同編纂させて「呂氏春秋」 を作った。
また、5国合従軍が秦に攻め入った際、秦軍は函谷関で撃退した。 この時全軍の総指揮を執ったと考えられる。
荘襄王の死後、呂不韋は太后(趙姫)と関係を持ってしまっていた。 これはとても危険なことなことであった。太后からの誘いがあり、呂不韋としても、未練があり関係を戻したのである。
しかし、政が成長するにつれ関係を続けるは危険であると考えなおした。 そこで嫪毐という男を太后に紹介し、自身の代わりとして男性が入れない後宮へ宦官に偽装して送り込んだ。
太后は嫪毐と関係を持ち2人の間で息子を生んでしまった。 しかし、それはすぐに発覚してしまった。 そのままだと刑が与えられる嫪毐は政に対し謀反を起こし、窮地を乗り切ろうとする。 だが、嫪毐の反乱はすぐに鎮圧され、嫪毐は車裂きの刑で誅殺された。
また、嫪毐の2人の息子も処刑され、太后は幽閉された。 この一件は呂不韋へも波及した。 処刑されるところだったが、今までの功績を重んじ、相国の罷免と蟄居(自宅や一定の場所に閉じこめて謹慎させる)に減刑された。
しかし、呂不韋は蟄居後であっても客との交流を止めず、諸国での名声も高かった。そのため、政は呂不韋が客や諸国と謀って反乱を起こすのではないかと危惧した。 そして、呂不韋は蜀地域への流刑を追加されたことで、自らの末路に絶望し、自殺した。
呂不韋には多くの食客がおり、彼らに共同編纂させた書物である。 秦の始皇8年(紀元前239年)に完成した。 儒家、道家、法家、兵家、農家など諸氏百科の説が含まれており当時の説を集めた百科全書のようなものである。 現在も研究のための貴重な史料である。
呂不韋は『呂氏春秋』 を市の真ん中に置いて「一字でも減らすか増やすかできるものには千金を与える。」と触れ回った。 これが、一字の値が千金にもあたるほど立派な文章であるという意味の四字熟語の一字千金の由来といわれている。