!!始皇帝(しこうてい)!!

始皇帝(しこうてい) ・中国戦国時代 秦(首都:咸陽) 31代君主
・中国統一 皇帝 ・性:嬴(えい ) 名:政(せい)
・紀元前 259年~紀元前 210年 49歳で死去
(秦31第君主 紀元前247年~紀元前210年 37年間)
(皇帝 紀元前221年~紀元前210年 11年間 )
・父 :荘襄王(そうじょうおう)
・母:趙姫(ちょうき)
中国を初めて統一して中華史上初めて皇帝と名乗った。
法家思想に基づく中央集権策を行った。
万里の長城の整備・増設、兵馬俑で知られる 始皇帝陵の造営等の大事業の土木工事。
国家単位の貨幣、計測単位の統一、道路設備、
交通規則の制定などの大きな改革を行った。

中国、日本、西洋を比較した年表。中国は、春秋戦国時代、日本は弥生時代、ヨーロッパはローマとなっている

始皇帝の革新的変革

1.中央集権化

始皇帝は、地方の諸侯を廃止し、中央集権的な官僚制度を確立しました。これにより、全土を郡県制(ぐんけんせい)に再編成し、地方行政を中央政府の直接管理下に置きました。各郡と県には中央から官吏が派遣され、地方の統治が一元化されました。

2.統一法制

始皇帝は、全国統一の法律を制定し、各地の異なる法制度を廃止しました。これにより、全国で一貫した法の支配を実現し、法の下での平等を目指しました。

3. 貨幣の統一

それまで各地で異なっていた貨幣を統一し、円形の穴あき銅銭「半両銭(はんりょうせん)」を全国通貨としました。これにより、経済活動が活発化し、商業の発展を促進しました。

3. 貨幣の統一

それまで各地で異なっていた貨幣を統一し、円形の穴あき銅銭「半両銭(はんりょうせん)」を全国通貨としました。これにより、経済活動が活発化し、商業の発展を促進しました。

4. 度量衡の統一

度量衡(長さ、重さ、容量の単位)を全国統一しました。これにより、取引や商業活動が円滑に行われるようになり、経済の安定と発展が図られました。

5. 文字の統一

各地で使われていた異なる字体を統一し、小篆(しょうてん)という標準字体を制定しました。これにより、文字の統一が図られ、文化的な統一と情報伝達の円滑化が実現しました。

6. 大規模な公共事業

始皇帝は、万里の長城の建設や修築、広大な道路網の整備、運河の建設など、大規模な公共事業を推進しました。これにより、防衛力の強化や物流の改善が図られました。

7. 文化統制

始皇帝は思想統制を行い、儒教をはじめとする他の思想を抑圧しました。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)という事件で、異なる思想の書物を焼き払い、儒者を弾圧しました。これにより、法家思想を中心とした統治体制を強化しました。

8.皇帝制度の確立

始皇帝は、「皇帝」という称号を初めて使用し、以後の中国の統治者の称号となりました。これにより、絶対的な権力を持つ統治者としての地位を確立しました。

半生

中国の春秋戦国時代の地図。秦、楚、韓、魏、斉、趙、燕の7国を地図で示している。

経歴

紀元前259年(0歳):誕生
始皇帝は趙の都である邯鄲(かんたん)で誕生した。本名は、 嬴政(えいせい)。父は秦の荘襄王(そうじょうおう) で、母は趙の趙姫(ちょうき))。

紀元前246年(13歳):秦王即位
父である荘襄王の死後、13歳で秦王として即位しました。幼少のため、当初は母と宰相の呂不韋(りょふい)が実質的に政権を握っていました。

紀元前238年(22歳):実権掌握
成長した始皇帝は、呂不韋を排除し、正式に実権を掌握しました。この時点から中央集権的な統治を目指し、改革を推進しました。

紀元前221年(38歳):中国統一
周辺の六国(韓、魏、楚、燕、趙、斉)を順次攻略し、中国全土を統一しました。この時、初めて「皇帝」という称号を自らに与え、「始皇帝」と名乗りました。

紀元前212年(47歳):万里の長城建設開始
北方の匈奴(きょうど)からの侵略を防ぐため、万里の長城の建設を開始しました。この巨大な防衛施設は後の歴代王朝でも増築され、現在の形に至っています。

紀元前210年(49歳):死去
巡幸中の紀元前210年に、病に倒れ49歳で死去しました。始皇帝の死後、権力闘争が起こり、秦王朝はわずか15年で滅亡しました。

誕生

政(始皇帝)は秦ではなく敵国の趙で誕生した。
それは、政の父(荘襄王)が趙に人質として送られていたためである。

荘襄王は趙では不遇だった。しかし, 韓の商人の呂不韋が目を付け支援を行った。 そして、荘襄王は呂不韋の妾(趙姫)を気に入り妻とした。呂不韋は不本意であったが既に多くの支援をしていたため譲った。

紀元前259年(昭襄王48年)その趙姫との間に政(始皇帝)が趙の首都邯鄲で生まれたた。趙政とも呼ばれた。

幼少期

政は幼少期、敵国の趙での潜伏生活を送らなけらばならなかった。

呂不韋の支援の結果、安国君の次の太子の推される協定を得た。しかし政(始皇帝)の曽祖父である昭襄王が趙に残る政たちにに配慮せず趙を紀元前258年(昭襄王49年)、紀元前257年(昭襄王50年)の2回攻めた。

そのため、趙から処刑されそうになった。荘襄王は秦への脱出に成功したがが妻子の 政(始皇帝)と趙姫(ちょうき)は連れ出せず、2人は置き去りにされた。趙は残された2人を殺そうと探したが潜伏されて見つからなかった。

紀元前251年(昭襄王56年)昭襄王が没し、1年の喪を経て紀元前250年(孝文王元年)に安国君が孝文王として即位する。そこで趙は国際信義上やむなく、10歳になった政(始皇帝)と趙姫(ちょうき)の共に秦の咸陽に送り返した。

孝文王は在位3日で没し、荘襄王が即位した。呂不韋は丞相に任命された。紀元前247年(昭襄王3年)に荘襄王は在位3年で没した。

2第続けて短い期間で死去したため、13歳の若さで政(始皇帝)が王位を継いだ。

即位後

  13歳の若さで政(始皇帝)が王位を継いだ。

紀元前241年(新王政6年)
楚、趙、魏、韓、燕の五国合従軍が秦を攻めた。秦は函谷関で迎え撃ってこれを撃退した。
紀元前230年(秦王政17年)
陽翟が陥落して韓王安が捕縛されて滅んだ(韓の滅亡)
紀元前229年(秦王政18年)
王翦・楊端和・羌瘣に趙を攻めさせた。
紀元前228年(秦王政19年)
趙王は捕虜になり、趙は秦に併合された(趙の滅亡)
紀元前227年(秦王政20年)
燕は政(始皇帝)の暗殺に失敗した。政(始皇帝)は激怒し総攻撃を仕掛けた。
紀元前226年(秦王政21年)
燕の首都薊を落とした。(燕の滅亡)
紀元前225年(秦王政22年)
王賁に魏を攻めさせた。首都・大梁を包囲した。水攻めに3か月耐えたのちついに降伏した(魏の滅亡) 李信と蒙恬が20万の兵を率いて楚と戦ったが大敗した。
紀元前223年(秦王政24年)
王翦が秦の全軍に匹敵する60万の兵を率いて楚を滅ばした(楚の滅亡)
紀元前221年(秦王政26年)
王賁に斉を攻めさせた。降伏して滅んだ(斉の滅亡)