『韓非子』や他の書物にも生涯に関する記述がほとんどない。そのため、 詳しいことはわかっていない。
司馬遷の『史記』によれば、出自は韓の公人であり、 後の秦の宰相になった李斯とともに荀子 に学んだとされる.
韓非は生まれつきの重度の吃音であり、見下されてきた。 しかし、非常に文才に長けていた。故郷の韓が隣国の秦に併合されそうにありながら用いられない わが身を嘆き、自らの思想を形に残そうとしたのが現在『韓非子』 といわれる著作である。
『史記』が伝える韓非の最後は次の通りである。
秦で属国でありながら面従腹背ならぬ韓を群県下すべしという議論が李斯
の上奏によって起こった。韓非はその弁明のために韓から派遣さることになった。
以前に韓非の文章を読んで敬服する所のあった秦王は、この時韓非を 登用しようと考えた。しかし李斯は、韓非の 才能が自分の地位を脅かすことを恐れて王に讒言した。このため、韓非は、 牢につながれ、獄中李斯が毒薬を届けて自殺を促しそれに従った。
春秋戦国時代の思想・社会の集大成、分析といえるもの。
全55編、10余万語からなる.