荘襄王 波乱な人生。不遇な幼少期から秦の王へ 

・中国戦国時代 秦(首都:咸陽) 30代君主
・性:嬴(えい ) 名:子楚(しそ)
・紀元前 281年~紀元前 247年 35歳で死去
(在位 紀元前249年~紀元前247年 3年間)
・父:孝文王(こうぶんおう)
・母:夏姫(かき) 側室
・子:始皇帝

中国、日本、西洋を比較した年表。中国は、春秋戦国時代、日本は弥生時代、ヨーロッパはローマとなっている

趙での人質生活

 荘襄王(そうじょうおう)は、父 "孝文王(こうぶんおう)"に20人以上子供がいたがそ の中で低くみられていた. そのため秦の敵国の趙へ人質に選ばれた。 その時、秦と趙は戦争を行っていた。そのため、趙の人たちからの感情は良くなかった。 趙での人質時代は不遇の生活であった。

中国の春秋戦国時代の地図。秦、楚、韓、魏、斉、趙、燕の7国を地図で示している。

 そこに商人である呂不韋りょふいが現れた。呂不韋は"荘襄王(そじょうおう)"を秦の王にすれば出世できると考え支援を行った。"荘襄王"は"呂不韋"から資金援助を受け、趙の社交界で人々と交流を深めた。
 "荘襄王"は"趙姫(ちょうき)"を妻とした。"荘襄王"は酒の席で 趙姫を気に入り呂不韋に趙姫を妻にしたいと相談した。 "趙姫"は、もともと"呂不韋"の妾であった。"呂不韋"は 不満だった。しかし,"荘襄王"に多額の援助をすでにしていたため仲 を取り持った。

 紀元前258年 秦が趙の首都邯鄲(かんたん)を包囲した。人質である"荘襄王(そじょうおう)"は処刑されそうになっていた。 そこに、呂不韋(りょふい)の助けがあって秦へ逃亡できた。しかし、妻の"趙姫(ちょうき)"と子の"政(せい)" は、逃げられずに趙の富豪の家にかくまってもらった。"政"は後の中華を統一した始皇帝である。

即位後

 紀元前250年
孝文王がわずか1年で没し即位した。呂不韋が丞相、政が太子となった。 政が太子になったと聞き趙は趙姫と政を秦に送り返した。魏・韓・趙に対する攻略を再開した。

紀元前249年(荘襄王元年)
 東周が諸侯と謀って秦を裏切ろうとすると、東周を滅ぼした。
 韓を攻めて成皋と鞏を取る。
荘襄王2年(紀元前248年)
 趙を攻めて太原を平定させる。
荘襄王3年(紀元前247年)
 魏の高都と汲を取り、趙の37もの城を奪い、長平の戦いの舞台となった上党の地も完全制圧する。
 (河外の戦い)
魏の信陵君が趙・韓・楚・燕・魏の5か国で同盟を組み反撃に出た。秦軍を破り、函谷関まで追撃して秦を追い詰めた。秦軍は函谷関を堅守し、 撃って出なかった。合従軍は退兵した。荘襄王は信陵君がいるかぎり勝てないと考えた。信陵君と魏の安釐王が不仲だという噂を聞きつけ、 信陵君と安釐王を引き離すための流言を流し、信陵君を政治から引き離すことに成功した。