呂太后は漢を建国した劉邦の皇后。劉邦死後、権力を握り専横を行った。
呂太后は、漢を建国した劉邦の皇后。劉邦の死後権勢を振るた。自身の血縁の呂氏一族を取り立てた。
劉邦の死後呂太后は、劉邦の遺言どおり蕭何に国政を託した。
(蕭何:劉邦の天下統一を助けた政治家。漢の三傑(蕭何、張良、韓信))
天下統一には、呂氏の援助のおかげと呂太后はそう信じていた。 しかし全部がぜんぶ呂氏一族の力ではない。 それなのに、呂氏は自分たち一族の力を最も高く評価した。
自身は、危険な功臣を滅ぼすことで無類の奇功を立てたという自信を持っていた。 また、呂氏一族はもっと優遇されてしかるべきと考えた。 彼女は誰憚る(はばかる)ことなく、実家の人たちを取り立てた。
まず、戚夫人をとらえて、永巷に押し込めた。
永巷:宮女が罪を犯したとき、幽閉した。
戚夫人は、頭を剃られ、首に鉄の枷をはめられ、囚人服を着せられ、そこで、終日米をつく罰を課せられた。
『永巷歌』(戚夫人が米をつきながら歌ったといわれるもの)
子は王なのに、母は囚人
朝からついて日暮れまで
いつも隣に死が肩を並べてる
三千里も離れているおまえに
誰をやって知らせたものやら
史記』には存在せず『漢書』に見えるだけなので後世の人が、
同情し、彼女に代わって作った歌うたかもしれない。
如意は、 趙王として趙の国にいた。 呂太后は、母子ともに殺そうと考えていた。 そのため、上京を命じた。 趙の宰相(周昌)は、呂太后の心が読めたので 先帝から如意を守れという言葉を盾に、呂太后の命令に従わなかった。 呂太后は、怒って、周昌に出頭を命じて趙から離した。 そのうえで再び使者を送って趙王の上京を命じた。
恵帝は幼い弟の如意が宮廷に入れば母のために殺されることを察していた。 母が手出しをできないように長安に来てから起居をともに身をもってかばった。
呂太后はじっと隙を伺っていた。 12月の夜も明けていない早朝、恵帝は狩猟に出た。 如意は幼少であり狩猟もできず、 母もまだ起きておらず安全だと思い置いていった。
恵帝の身辺には呂太后から派遣された者がいた。 如意が一人きりになった時には、深夜であろうと早朝であろうと 速やかに報告するように命令されていた。 この知らせを聞き呂太后はかねて用意していた毒を女官 に持たせて如意に飲ませた。 狩猟から帰った恵帝は、この知らせを聞いて思いっきり泣いた。
呂太后はの如意に毒を持ってあっさりと殺した。 戚夫人はなぶり殺しにして、恨みを晴らそうとした。 まず、両手両足を切断した。次に目をくりぬき 耳をくすげて聴力を奪い、薬を飲ませて声を奪った。 そして、便所に置き人豚と名付けた。
呂太后は、人豚を恵帝に見せた。 気の弱い恵帝は、この人豚をみて、ショックのあまり病気になった。 そして一年ほど、起き上がれなかっという。 恵帝は、この日から政治のことは放棄して、酒と女に溺れてしまった。 政治の大権はますます呂太后の手に握られるようになった。
太后は、自分娘の魯元公主の生んだ娘 を恵帝の皇后に立てた。 呂氏一族で政権を固めようとした。
しかし、恵帝と皇后は子が生まれなかった。 呂太后は自分が自由にできる皇太子が欲しかった。
呂太后は 皇后に妊娠したふりを命じた. たまたま呂氏ゆかりの女性でかつて宮廷につかえ、 今家に帰り子を孕んだものがいた。 呂太后はその女を一目から隠し、男の子が生まれると 皇后御出産んと発表したのである。 この秘密を守るためにその女をは殺された。
呂太后は呂氏の親戚の家で男子出産があれば後宮の 女が恵帝に寵愛されて産んだ子だということにして宮廷で育てた。 このようにして、恵帝の子とされたのが皇太子を含め6人ほどいた。
恵帝は、在位7年で死んだ。 新しい幼帝は、自分の母が呂太后に殺されたことを知った。 大きくなったら敵を討つことを口に出してしまった。 それを聞いた呂太后は幼帝をあっさりと殺してしまった。